いゑもり - 酒器は、冷たさを語る。-
夏の夕方。一日を終えた空気の中に、まだ熱がわずかに残る。そんなとき、冷蔵庫から取り出した一本の酒と、手にひんやりと馴染む銅のぐい呑みがあれば、それだけで特別な時間が始まる。
器を手がけたのは、広島・廿日市で鍛金工房「いゑもり」を営む矢竹純さん。一枚の銅板を金鎚で何度も打ち起こし、火を入れてはまた叩く。その繰り返しのなかから、鈍く光り、静かに鎚目が揺れるぐい呑みが生まれる。触れるたびに手のひらが落ち着く、酒を迎えるための道具だ。
今日の酒は、「天青 河童 純米吟醸」。湘南の蔵元、熊澤酒造が手がける一本。口に含むと、やわらかく丸みを帯びた米の旨みが広がり、後味には涼やかなキレが残る。華やかすぎず、食事とともに寄り添う、まさに“涼を飲む”ような酒である。
合わせる魚は、太刀魚。皮目の香ばしさと、ふんわりとほどける身の甘みが、「天青」の透明感ある味わいをぐっと引き立てる。淡白ながらもしっかりとした旨みのある太刀魚には、余韻のある酒がよく合う。銅のぐい呑みが、酒の温度を一瞬で伝えてくれる。冷たさはそのまま舌の上に届き、ひと口ごとに味わいの輪郭が立ち上がる。太刀魚の一切れと、「天青」のひと口。その間に生まれる余白を、ぐい呑みが受けとめてくれる。それはまるで、潮風が抜ける湘南の夕暮れのような、凪いだ心地よさをたたえている。
鍛金工房「いゑもり」
矢竹 純(やたけ じゅん)
15歳の時に東京都立工芸高校の授業をきっかけに金属工芸を始める。広島市立大学芸術学部に進学してからも金属工芸を学び、特に鍛金技法を使った作品を作り始める。卒業後、新潟県燕市の伝統工芸品"鎚起銅器"の会社、玉川堂に入社。職人として鍛金技法の器を作る。7年間勤め、妻とともに独立。広島に戻り屋号を"いゑもり"として現在夫婦で作家活動。
矢竹 葵(やたけ あおい)
埼玉県出身。高校卒業後、スペインに3年半留学。七宝技法を美術学校で学ぶ。帰国後、玉川堂に入社。夫とともに独立。
技法について
「いゑもり」では、主に銅を素材とした鍛金作品を制作しています。
鍛金とは、金属の板を金鎚で叩いて成形する技法です。一枚の銅板を何度も打ち、熱し、また叩き……という工程を繰り返しながら、少しずつ立体へと起こしていきます。仕上げには、硫黄系の温泉成分などを使った伝統的な着色技法を採用し、銅が本来持つ表情を引き出しています。使うほどに深みを増す、その“育っていく”風合いも魅力のひとつです。
屋号「いゑもり」について
「いゑもり」は、ご夫婦のペットであるヤモリに由来しているそうです。